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発達障害のあるスタッフへのインタビュー@たかみーのひとりごと
こんにちは!家庭教師のLUCK代表の高見ことたかみーです。
今回は体験レッスンのスタッフのAくんにインタビューをさせてもらいました。
実はAくんは医師からADHDの診断を受けている発達障害を持つスタッフなのです。
診断当時、医師から「精神障害者保健福祉手帳3級」を取得できると診断され、周りの理解がないと日常生活にやや支障をきたす、と言われていたそうです。
そんなAくんですが、大学生時代から家庭教師をしながら、体験スタッフとして長い間、LUCKに従事してくれています。
親御さんや生徒さんからは大人気なのはもちろん、ほかの従業員や後輩スタッフからも暑い信頼がある兄貴的存在です♪
特性上、処理業務が苦手だったり忘れ物があったりはしますが、そんな短所を気にもさせないくらい彼には魅力があります。
発達障害があるない関わらず、自分の子どものこととなると、どうしてもできないことに注視しがちになってしまいます。(私もその一人です、、、泣)
今回のAくんのインタビューの内容を見ていただき、育児や子育てに悩む親御さんにとって少しでもためになってくれたら嬉しいです。
今回はAくんの学生時代の話しを聞きながら、どんなことに苦労してどのように乗り越えたかたくさん質問していこうと思います。
こうやって話しするってなると緊張しますね笑
だね笑知っていることも多いから尚更だね。さて、じゃあ早速質問していきますね。
はい笑
じゃあまずは幼少期の頃から聞いていこうかな。
はい。僕が2歳頃には両親は離婚していて、福祉業界に勤める母と、確実にアスペルガーを持っているであろうおばあちゃん、そして3歳年上の兄と4人で暮らしていました。
当時、母は障がい者の方が寝泊まりしているグループホームに勤めていて、多数の資格を持った福祉のプロでしたけど、そんな母ですら「兄に比べてなんて育てづらい子なんだろう」と思っていたそうです。
毎日の食事は全く集中ができておらず、一口食べては喋り始め、一口食べてはおもちゃで遊び、挙げ句の果てには寝転がってしまうとか、1回の食事に最低1時間半もかかっていたそうで、今考えるとこれを1日3回も繰り返していたなんて、到底信じられません笑
幼少期は、とにかく泣き虫で、「できない」が口癖だったそうですが、保育園ではみんなが集まっている時にも大人しく座っていられない程度で、そこまで問題を起こすといったことはありませんでした。
そうなんだ。1回の食事に1時間半とは、、、次回はお母さんにインタビューしたいな笑
全然やってくれると思いますよ!笑
でも保育園時代は落ち着きがないくらいでそこまで問題行動はなかったんだもんね?
そうなんです!ただ兄からの厳しい教育と元々の性格もあってか、小学生の頃は外でもわんぱくで問題行動は増えました。母が仕事で忙しかったので宿題を見てもらえませんでしたし、学童で宿題をやってくるよう言われていましたが、学童の指導員さんでは制御ができず、結局自宅に帰って1時間以上宿題に翻弄され、食事にもまだ1時間以上かかる始末で、独り身で仕事をし、朝早くに起きて夜遅くに帰ってくるという多忙な生活を送っていた母には本当に迷惑をかけたな、と今振り返ってみて思います。
そんな様子だったのに学校の勉強はついていけてたの?
勉強は全然だめでしたね。小学校の授業中でもじっと座っていることができず、勝手に立ち歩いて教室から出て行ってしまったりしてました。
幸い、母の福祉系の知識もあり、校長先生と相談を重ねてくれていたそうで、小学校2年生からは情緒支援級、いわゆる特別支援級に在籍することになったんです。
当時、僕の学校には特別支援級はなかったんですけど、母の知識が功を奏して、校長先生の働きかけもあって新設してくれました。
その情緒支援級のおかげで勉強の遅れは少なく、小学校5年生の頃には普通級に戻って授業を受けるようになりました。
けど、人のものを盗んだり、嘘をついて友達関係でトラブルがあったり、下校途中の川遊びでランドセルを週3回以上も持って帰るのを忘れて学童の指導員さんに迷惑をかけてしまったりとか、とっても問題児でした。
恥ずかしい思い出ですが、小学校6年生になっても家族の前だけでは、嫌なことがあると地団駄を踏んで泣き喚くなど、感情の起伏がとても激しかったです。
「この子はこのままで正常な大人になれるのだろうか?」と母は本気で心配し、わざわざ地元警察官さんにお願いして、叱ってもらう機会を作ってくれたこともありました。
余談ですが、小学生の頃、母の仕事がなくなってしまったことがあり、学習用具も買うことができない時代がありました。
そんな時、母は安く売っている自由帳に線を引き、ノートや漢字練習帳を自作してくれたことを今でも覚えており、それだけではありませんが、今まで迷惑をたくさんかけてきたという自覚もあり、大人になった今、母や祖母への感謝は他の人たちと比べて非常に強く抱いていると思います。
周りの大人たちに助けられながら、なんとか情緒の部分は安定して、小学校を卒業することができました。
そっか。お母さんには感謝しなきゃね。
ほんとです笑
中学生になると、情緒は安定していましたが、集中力がない、多動性や衝動性、興味のないものは極端にやりたくないとか、中学生になっても授業にはついていけませんでしたね。
昔からのよく喋るという部分がこの頃には「性格」という個性になっていたので、友達はたくさんできましたが、勉強にはついていけず、座って話を聞いているだけの授業はとても苦しかったことを覚えています。
当時数学は平均点以上でも、嫌いだった英語は100点中2点という、苦手なことは本当に全くできないという状態でしたし、通知表は体育が4、数学が3、他は1という悲惨な内申点でした。
まさにADHD特有の性格だね。友人関係がうまくいかないお子さんなんかも多いけどその辺はどうだったの?
友達関係は良好でした。良好だったと信じたい笑
信じよう笑でもずっと成績が悪かった訳でもないんでしょ?
はい。中学2年生の時に、恩師である社会の教科担当をしてくれていた先生が家庭状況を心配してくれ、「このままの成績だと私立高校にしか行けない。お母さんを泣かせることになるぞ。」って、なんと4時間にも渡って説教してくれました。
私立と公立では学費がどれくらい違うか自分で計算させられて、学費以外にも制服代や通学費などを合わせると、当時は3年間で240万円ほどの差がありました。
兄から母の給料は月20万円以下だと聞いていた僕にとって衝撃的な金額で、ここから少し心を入れ替え勉強に打ち込むことになります。
恩師の先生の授業がとても面白かったこともあり、社会が一番得意な教科にもなりました。ありがたいことに母が知人に家庭教師をお願いしており、塾ではうまくいかなかった僕も、その家庭教師の先生とは相性がよく、みるみる成績が伸びていきました。
その影響もあり、ありきたりかもしれませんが「自分のように困っている生徒を救える先生になりたい!」と思い、社会科の先生を目指すようになり、なんとか地元の公立高校に進学することができました。
おー!すごいね!ここまで聞いてると周りの方達の支えがすごいね。
そうなんです!ほんと周りに助けられてばかりの人生です笑
それもまた才能だね!次は高校時代か。
はい、高校生くらいからコミュニケーション能力が個性として開花し始めて、進学した高校が自分のレベルに合っていたので勉強は比較的順調に進み、部活を楽しみながら青春を謳歌していました。
友達から「映画中にずっと喋りかけてくるから一緒に映画には行きたくない」ということを笑いながら言われたこともありましたが、提出物を助けてもらったり、部活で必要なものを忘れないように何度か教えてもらったり、友達には特徴を理解してもらい、本当に恵まれていたと思います。
そして、よく喋る個性から発展したコミュニケーション能力のおかげで、高校のイベントでの実行委員のようなものを任せてもらい、その経験から人の前に立って人を笑わせることが得意になり、それを自分自身も楽しんでいることを学び、それが今の自分にも繋がっていると思います。
実は、高校2年生まで自分が「発達障害」だという認識はありませんでした。
え!?そうなの!?
はい笑母親が友人とリビングで話しているのをたまたま聞いて、発達障害と診断されていることを知りました。
今考えると、性格上「僕は発達障害だからできないんだ」と言い訳し、諦めてしまうことが増えていたと思うので、ある程度成長した頃まで告知してもらわなくてよかったと思っています。
なるほど。知らぬが仏じゃないけど、知れば悪い方向にいく可能性が高いとお母さんは思ってたんだね〜。
そうですね。もし幼少期とかに聞いてたら絶対今の自分ではないのは間違いないです笑
その頃はまだ学校の先生になりたいと思ってたの?
そうです。その頃はまだ社会科の先生を目指してて、大学進学に向けて勉強してましたけど、英語が本当に苦手で志望校は全滅してしまいましたね。
とりあえず経済学部、経営学部、商学部に入ることができれば、社会の教員免許を取得できると思っていたので何も考えず、よく調べもせず、後期でなんとか合格した「商学部の経営情報学科」に入学しました。
教師を目指すために教職課程を履修するための説明会に参加したんですけど、興味を持って前のめりに説明会に参加したのも束の間、なんと僕が入学した学科は「情報技術・パソコン系の教員免許しか取得できない」ということがわかったんです笑
これ笑っていいとこ?
笑ってやってください笑下調べをしなかった自分が悪いんですけど、その学科は経営の色が強いかと思いきやパソコンをメインで扱う情報がメインだったということがわかり、大嫌いなパソコンをメインでやらなければならない上に、社会科の先生になるという夢を諦めなければならないという事実がなかなか受け入れられず、人生最大ともいえる挫折を味わいました。
笑えないじゃん。
今となってはです笑そこからは結局サークルも辞めてしまい、将来のためと始めた家庭教師のアルバイトとコミュニケーション能力を活かせると思った居酒屋のアルバイトに明け暮れ、大学での勉強というものへの意欲自体も薄れてました。
けれども大学は卒業しなければいけない、大学を卒業したら就職ということは理解していたため、持ち前の行動力を活かして、中期間のインターンなんかにもいくつか参加し、コミュニケーション能力が重要になる「営業職」にも興味が向くようになったんです。
大学2年生の夏に社会科の先生になるためにと始めた家庭教師のアルバイトで、受け持ちを増やそうと思っていた時に、登録していた家庭教師の会社からの案内で初回の体験レッスンに訪問し、勉強のやり方や家庭教師の魅力を伝える「学習アドバイザー」という仕事があることを知りました。
学校教員で大変と言われている業務の中に「保護者様対応」ということがあることを知っていた僕は、毎日いろいろなご家庭に訪問し、いろいろな人の意見や話を聞き、トークスキルも磨くことができる仕事は、当時の僕にはぴったりだと思い、すぐさま応募しました。
それがうちだったわけだね。
そうです!自分の話を5割、お客様の話を5割で進めているつもりが、自分が9割喋ってしまうような世間知らずな、普段のコミュニケーションとは違う会話の難しさなども学びましたが、人と話すことが好きな僕は成長するにつれ、天職だと思うようになりました。
発達障害を持っているお子さん、そういったお子さんを持つ親御さんに伝えたいことを話してもらえる?
はい。ADHDだけではなく、自閉症やアスペルガーをお持ちのお子さんは得意分野においては天才的な能力を発揮することがあります。
僕が体験レッスンで見てきたお子さんの中にも、文字の読み書きが全くできないのに、興味のある恐竜図鑑を一字一句間違いなく暗記しているお子さんもいれば、学校の授業や体験レッスンはずっと座って聞いていることはできなかったけど、絵を描くとなると1時間以上も没頭してずっと座って描き続けているというお子さんもいました。
そしてその絵は大人顔負けのリアルで、物の特徴をしっかり捉え、色使いも決して子どもが1時間で描いたとは思えない程の出来栄えでした。
集団生活が苦手だったり、授業に集中できなかったり、文字を書くのが極端に嫌いだったりしても、そのお子さんにとっての得意分野を見つけることができれば、天才的な才能が発揮されることが多く、無限の可能性を秘めていると僕は思っています。
僕も小さい頃はプロ野球選手や宇宙飛行士、電車の運転士、料理人などなど、好奇心旺盛な少年時代はたくさんの夢を持っていました。
僕の発達障害の特徴は、悪くいえば飽きっぽく、1つのことが続かないので根気がないという側面もありましたが、捉え方を変えれば、好奇心旺盛、物怖じしないという良い側面もありました。
学校の成績は決して良いというものではありませんでしたが、家族や恩師をはじめとする周りの大人たちから良い特徴をたくさん引き出してもらい、今では1人の社会人として頑張っています。
最後に、生意気を言ってしまうんですけど、発達障害を持つお子さんの親御さんには、お子さんへの期待を持ち続けてほしいです。
僕は親や先生、友達にたくさん助けてもらって今があります。本人が1人でできないことを責めてもできるようにはなりません。
どうやったらできるようになるか、お子さんと同じ目線に立って一緒に考えてあげてほしいです。
僕も発達障害を持っていても胸を張って生き生きと人生を送れるんだという事実をこれからもしっかりと伝えていきたいと思います!
今日はありがとうございました。
かっこよく終わりましたね笑
はい笑
お疲れ様でした。自分が発達障害を持っているということを打ち明けること自体に抵抗感を持つ人が多いと思うけど、そこを強みにすることができるところがAくんの良さだよね!今日はありがとうございました。
ありがとうございました。